四半世紀を経てなお君臨する怪演の美学――夏木マリが語る湯婆婆と歩んだ25年、そして舞台の向こう側
夏木 マリ 湯 婆婆という絶対的な結びつきは、アニメーションの枠を完全に踏み越えてしまった。2001年にスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』が世に放たれてから四半世紀。巨大な頭部、鋭い眼光、怒号の奥に宿る奇妙な色気と愛嬌――油屋を支配するあの魔女は、もはやセル画の中の幻影ではない。夏木という一人の表現者の皮膚を纏い、呼吸を共有し、劇場空間を呑み込む生身の怪物としていまも進化を続けている。
ロンドンのウエストエンドから東京の帝国劇場に至るまで、客席の空気を一瞬で凍りつかせるあの掠れた声の凄み。世界の舞台ファンを熱狂させた夏木 マリ 湯 婆婆の佇まいは、単なる「キャラクターの再現」という安直な言葉を拒絶する。70代半ばを迎えてなお研ぎ澄まされる身体表現の切っ先は、いま何を捉えているのか。2026年の今だからこそ見えてくる、この怪演の深層に迫る。
声から肉体へ:2001年のマイク前から海を渡るまでの軌跡
四半世紀前のアフレコブース。宮崎駿監督から「千尋をいじめる悪い魔女じゃない、湯屋という巨大な組織を必死に回す経営者なんだ」と告げられた瞬間から、この旅は始まったという。当時のアニメーション界にとっても、夏木自身のキャリアにとっても、湯婆婆という役は特異点だった。
声優としての参加から約20年を経て訪れたのが、舞台版への挑戦だ。ジョン・ケアードの手によって三次元化された油屋の世界で、彼女はマイクの前に立つ声の主から、全身全霊で重力と格闘する舞台俳優へと立ち戻った。巨大なパペットと息を合わせ、何十キロもの衣装とヘアメイクの重圧に耐えながら板の上を踏み鳴らす。声の記憶を持つ観客の期待を裏切るどころか、実物のエネルギーでねじ伏せてみせたのだ。
「贅沢だねぇ」の裏にある情念――湯婆婆という女の生々しさ
なぜ湯婆婆は、これほどまでに人々を引きつけてやまないのか。ただ恐ろしいだけの悪役なら、とうに人々の記憶の彼方へ消え去っていただろう。
夏木が宿す湯婆婆の真骨頂は、その歪で猛烈な「人間臭さ」にある。利欲にまみれ、契約で他者を縛り付ける冷徹な資本家でありながら、巨大な赤ん坊「坊」の前では過剰なまでに盲目的な母へと崩壊する。この両極端な振り幅を、彼女は一切の照れなく演じ切る。「贅沢だねぇ」の一言に潜む、酸いも甘いも噛み分けた老女の凄惨なリアリティ。夏木自身の波乱に満ちた人生の厚みが、魔女の皮一枚下に脈打っている。
パペットと生身の境界を溶かす、70代の驚異的なフィジカル
舞台版『千と千尋の神隠し』を見た者が息を呑むのは、パペッティアたちと夏木が完全に「一つの生命体」として同調する瞬間だ。舞台上には巨大な湯婆婆の顔面パペットが存在し、夏木はその傍らで、あるいはその影で動く。それにもかかわらず、観客の視線は磁石のように生身の夏木マリへと吸い寄せられる。
彼女の歩き方、指先の反り、首の傾げ方ひとつが、巨大な人形に血潮を送り込んでいるのだ。コンテンポラリーダンスを通過し、自らの身体表現を「印象派」と称して実験を重ねてきた夏木だからこそ成し得た離れ業だろう。年齢という数字を軽々と笑い飛ばすような強靭な体幹と、舞台の端まで届く濃密なオーラ。そこには、老境を言い訳にしない表現者の冷徹な覚悟がある。
銭婆との演じ分けに見る、表現者・夏木マリの陰影
強欲な湯婆婆の裏返しとして存在する、双子の姉・銭婆。この二役の演じ分けこそ、夏木の職人技が最も静かに光る瞬間だ。
怒号と契約の印鑑で空間を支配する湯婆婆に対し、沼の底の離れで紡ぎ車を回す銭婆は、静寂と慈愛で空気を満たす。声のトーンをわずかに落とし、角の取れた柔らかい息遣いを混ぜるだけで、同じ顔を持つ魔女がまったく異なる魂を宿す。激動の人生の果てにたどり着いた穏やかさを体現する銭婆の芝居には、夏木が歩んできた年月の優しさが滲み出ている。このコントラストがあるからこそ、湯婆婆の業の深さがより一層際立つのだ。
言葉の壁を粉砕したロンドン公演、異国を震撼させた「ババア」の引力
海を渡ったウェストエンドの舞台で、現地紙の劇評家たちがこぞって書き立てたのは「Natsuki’s Yubaba」の圧倒的な存在感だった。言語は日本語のまま、字幕を追うはずの現地の観客が、彼女の一挙手一投足に息を呑み、歓声を上げ、恐怖に身を縮めた。
日本の古典芸能――歌舞伎の「見得」や能の「静と動」に通じる身体性が、西洋の観客の琴線を強烈に揺さぶった。文化の翻訳など必要ない。理屈を超えた圧倒的な存在感が、ロンドンの歴史ある劇場の屋根を揺らした。日本のサブカルチャーが生んだキャラクターが、夏木という肉体を得ることで、シェイクスピア劇の怪異に匹敵する普遍的な演劇的アイコンへと昇華した瞬間だった。
名前を奪われる時代に、夏木マリが舞台から投げかける警鐘
2026年、私たちはこれまで以上に「自分は何者か」を見失いやすい時代を生きている。デジタルな記号に囲まれ、個人の輪郭が曖昧になっていく現代において、『千と千尋の神隠し』が投げかける「名前を奪われる」というモチーフは、公開当時よりもはるかに切実な響きを持つ。
千尋から名前を奪い、支配下に置こうとする湯婆婆。だが、その湯婆婆自身もまた、油屋というシステム、あるいは自らの強欲という名の契約に縛られた囚われの身ではないのか。夏木が演じる湯婆婆の瞳の奥に時折宿る、深い虚無と疲労。それは単なるファンタジーの悪役を超えて、現代を生きる私たちの鏡として舞台の上に君臨している。彼女が放つ声の残響は、劇場の外へ出たあとも、私たちの耳の奥で決して消えることはない。 (出典: 夏木 マリ 湯 婆婆(Yahoo!ニュース))